2013/02/01(金)

「ワクワク海外移住」宣言!

どうもいろいろ、ご心配おかけしました。
長男は、あれからひと山乗り越えたようで、毎日元気に幼稚園に通っております。

先日、ためしに「マレーシアってどう?」って聞いてみたところ
なんと「けっこう気に入った」という意外な(?)答えが。

「え、どこが? どこが?」と聞いてみると、
「おうちが広いところ、プールがあるところ。それに……幼稚園が楽しいところ」
ですって!!

えええ〜、この間と全然ちがうやんけ!!
おかーさん、マジ違うエリアの幼稚園も探しはじめるところだったよ( ̄Д ̄;;
とツッコミたいのをぐぐっとガマンして、本人に楽しいと思う中身を聞いてみました。

そしたら、
◎どうも幼稚園でテレビを見せてもらっているらしい(わが家にはテレビがありません)
◎何かのたび、ごほうびにグミなどのお菓子をもらっているらしい
ということが発覚……!!

これがマレーシアでは標準らしい(友人の息子さんの学校では、先生が生徒をほめるとき、1RMのお金をくれるそうです!!)ので仕方ないんでしょうけど……なんだかどっと力が抜けたのでした(´Д`)

まあ、キミの毎日が楽しいのがいちばんだよ。
よかったね、ということにしておこう!!

 
 
 
さて、前置きが長くなりました。

昨日、新しいプロジェクトのプレサイトがローンチしました。
その名も「ワクワク海外移住」!!

私、「デイジー」というハンドルネームで、新しいブログを書きはじめました!
なので、クアラルンプールでの生活の様子などは、今後はそちらで書いていくつもりです。
よかったらぜひチェックしてくださいね!
 
 
しかし、なぜこんなベタベタなネーミングにしたかって??
 
「ひと目でわかる、わかりやすさ」も理由のひとつなんですが、2011年夏、とあるネット上の海外移住コミュニティに参加したことも大きく影響しています。

そこに集っていたのは、もちろん「海外移住」をめざす人たち。
欲しい情報を互いにやりとりできるんです。
そりゃあ、願ってもないじゃないですか!
毎晩、Skypeであれこれ情報交換したり、悩みを話したり。

しかし現実は……そのコミュニティはとっくに解散してしまって、もうありません。

一時はかなり濃密なやりとりをしていて、なかには実際に海外に渡った人もいたんですが(当時、妊娠中だった私には、すぐに行動できる人がうらやましくてしかたなかったです)、手引きしていた人が渡航者たちから集めたお金の使い方などに問題があることが発覚して空中分解……。
 
 
「なんだかなあ」と「やっぱりなあ」がごちゃごちゃになって、コミュニティが終わった当時は、複雑な気持ちでした。
「やっぱりなあ」と思ったのは、呼びかけ人物が使っていた言語が、私にはどうも合わなかったんですよね。

海外に在住していた彼女は、最初は確かに「日本人を助けたい」という純粋な思いから行動したんでしょう。
呼びかけの言葉も、それなりにキャッチーでパンチ力もあった。
そんな彼女を頼りにした人たちが、吸い寄せられるようにたくさん集まって……。

しかし、コミュニティ内で彼女が使っていた言葉は、ほとんど脅しに近いものでした。
今、住んでいる場所から動かない(動けない)人、家族の問題で悩んでいる人を、激しく叱咤するんですよね。
「今、動かずにどうする!」「本当に自分がしたいことは何だ!」的な感じで。

コミュニティ内でいろいろなプロジェクトが立ち上がって、それはそれでおもしろい動きだなと思っていたんですけど(人ごとなのは、私、ほとんど何も手伝ってなかったのでw)、参加している人たちがどうも「やらされている感」とか「みんながしているから、私も何か手伝わなくちゃ感」で動いている気がして。

で、根っからのあまのじゃく気質の私は、そんなところに水を差す役割だったんですけど(苦笑)、主催者にホントに伝えたかったのは、「脅しじゃ人は動かないよ」ということ。

今、体罰が問題になってますけど、あれと同じですよね。
言葉や暴力で相手をやりこめて一時的に言うことをきかせることはできても、それは心からではないから、必ずひずみが生まれてくる。
恐れや不安から動いても、本当に欲しい結果はついてこないものです。
 
確かに3.11以降、海外移住をめざす人は増えたけど、現実にはいろんな足かせがあって、みんながみんなそれを実現できるわけじゃない。
でも、動きたいと思ってる人は、日増しに増えている……。
 
 
そこで、考えたわけです。
人が実現困難なことにチャレンジする原動力って、いったい何だろう? って。

もちろん、子どもの将来とかも大きな原動力になると思います。
ある人は、それで海外移住を実現できたかもしれない。
でも、逆に私は、足がすくんでしまったんですよね。
私自身が外国で何をしたいのか、さっぱり見えてこなくて。

で、いっぱい迷走して迷走して、「経済的なことが問題なんだったら、ネットビジネスでもやるか」的な行動もとってみて、ある日突然気がついたのが、「自分自身がワクワクすることが必要なんだ」ってことだったんです。

私たちには、困難なこと、思いがけないことにぶつかったとき、「ワクワク」するという適応力が備わっているそうです。

子どものころ、台風が来ると「ワクワク」しませんでしたか?
以前、何かで読んだんですが、あれは予測不可能なできごとに適応するための、人間に備わった本能なのだそうです。

緊張状態にあると、人間のパフォーマンスというものは確実に低くなります。
一方、「ワクワク」している状態というのは、非常に集中力があって、パフォーマンスの高い状態らしいのです。
だから、人は「ワクワク」することでパフォーマンスを上げ、数々の困難を都度乗り越え、生き残ってきたんですね!
 
 
私は今、誰よりも自分自身が「ワクワク」して、この状況を楽しみたいと思ってます。
震災前、東京で暮らしていたころ、「ワクワク」することが最高に楽しくて、大好きな感覚だったことを思い出したから。

恐れや不安からでは、人は動かない。
だけど、楽しいことに人は集まってくるもの、でしょ?

だから、このプロジェクトを思いついたとき、「ワクワク海外移住」に即決定したってわけです!
 
 

じゃあなぜハンドルネームが「デイジー」なのかって話は、また別の機会に(笑)。

そして、肝心の「ワクワク海外移住」で何するのよ、って話もまた次に譲りたいと思います!
 
 
 

2013/01/16(水)

ハイヒールとビーチサンダル

5泊6日の東京出張を終え、今朝、KLに戻ってきました。
東京の寒さも忘れ、すっかり元のTシャツ&ビーサン生活です。

いやー、ものすごい雪でしたね、東京!!
過去を振り返っても、なかなかない降り方だったんじゃないかなって思います。
3日間の撮影のちょうど真ん中で降られてしまい、雪に足を取られながら荷物を運搬したり、時間通りにスタジオ入りできるかドキドキしたりと、なかなかスリリングな出張となりました。

しかし、東京で改めて驚いたのは、大雪の翌日にもかかわらず、ハイヒール、ピンヒールの女性をチラホラ見かけたこと。
それしか持ってないのか、どんな天候でもヒールを履く主義なのか、はたまた恵比寿というお土地柄なのか……
坂道をツルツル滑りながら前を歩いているお姉さんを危なっかしく思いつつ、私の頭の中では、正月休みに友人たちと出かけたマラッカで見かけた纏足(てんそく)がぐるぐるぐる……。

纏足はご存じのとおり、「小さい足の女性が美しい」とされた中国での古い悪習ですが、女性から自由を奪う目的などもあったようです。
(纏足の写真や図を直視できる方は、Wikipediaなどを参照してください)

20年以上も前の高校生のときに読んだパール・バックの長編小説『大地』で纏足の詳細を知り、衝撃を受けた記憶はあったんですが、実際に本物を目にしたのは初めてでした。
世界文化遺産にも指定されているマラッカの、美しい伝統的なビーズ細工のサンダルを見たくて古い工房に入ったとき、それは展示されていたのです。

成人女性の足が入るとはとても思えないほどの小ささで、ハイヒールをすっぽり布で包んだようなシルエット。
でも、足首部分はそれなりの太さなので、子ども用でないことはわかります。
なんだかショックで、とてもビーズサンダルどころではなくなってしまい、早々にその工房をあとにしてしまいました。
一緒にいた友人も、相当ショックを受けたようでした。

私が高いかかとの靴を履かなくなってしまったのは、いつ頃からだろう?
バブルの残り香があった大学生の頃は、確かに履いていた記憶があるし、社会人になってからもしばらくは履いていたように思います。

でも、痛いんですよ。
合わない靴を履いて一日過ごすと、夕方には靴に噛み付かれる感じ。
「これ以上はもう一歩も歩けない」という状態になって、途中から靴を脱いで裸足で帰ったこともあります。
そういうガマンを重ねると、外反母趾とかになっちゃうんでしょうね、きっと。
でも、私、幸いその前に辞めました。

うん、そうだ。
思い出した。

20代の後半にさしかかる頃、勤めていた会社を辞め、「これからはホントに好きなことをして生きて行こう!」と誓ったとき、私は自分が苦手ないくつかのことを人生から除いたのでした。
そのうちの1つが通勤電車だったし、1つがかかとの高い靴だったのです。

とはいえ、まったくヒールを履かないのはオンナとしてどうなのよ、というところで、いくつかの履きやすい靴を残し、あとはスッパリサヨナラしました。
10cmのハイヒールは、以来持ったことがないし、試着さえしたことがありません。

そんな私が、人生2度目の「ヒール大処分大会(しかも今度は完全に!)」をしたのは、震災後です。
私、地震の当日に限って、普段はあまり履かない7cmのウェッジソールのスニーカータイプのミュールを履いていたんです。
かかとが高めとはいえ、設置面が多くて歩きやすいウェッジソールだし、スニーカータイプだし、ミュールだし、というところで割と気に入っていた1足だったんですが、やはり緊急のときには歩きにくいことこのうえなかった!!

保育園に急行して息子を確保し、ふたりで歩いて帰る途中、人が道路に溢れ出ていて危険だったので何度も息子を抱えて歩かねばならず……。
しかも保育園の大荷物に加え、自分の仕事の荷物もあり、私は朝、自分がその靴を選んだことを大変、大変後悔したのでした。

でも、あの日、靴で泣いたのは私だけではなかったようで。
当日の夕方、恵比寿でスニーカーを買っている女性を何人も見かけたし、ハイヒールを折って家まで歩いて帰ったという人の話も聞きました。

で、私、震災後の引っ越しを機に、もっていたヒールを冠婚葬祭用の1足を残して全処分。
単純に徳島では履いて行くところがないという事情もあったし、東京に行くときは、オシャレ度が多少落ちても、何があっても大丈夫な靴を履いて行くと決めていたのも理由です。

いえ、何もハイヒールが悪いってことじゃないんですよ。
足がきれいに見えるし、かっこよく履きこなしている人を見かけるとすてきだな〜って思います。

でも、大雪の翌日は、長靴でもいいじゃない?
自分の身の安全を優先させましょうよ。
どうしてもっていうときは、持って出て、安全な場所だけ履き替えればいい。

そして何より足の健康と、自分自身の自由のために、ときどきはハイヒールを休んでもいいのでは? って思うんです。
美しい足が、骨も曲がるほどの痛みと自由の代償だったとしたら……。

自分の足にぴったり合った、一日履いても絶対に足が痛くならないお気に入りのブーツで、大股でワシワシと東京を闊歩する自由って、ホント最高だなって思うんですよ。

いや、えらそうなこと言ってますけど、クアラルンプールでは、ほぼ100%ビーチサンダルの私。

まあ、その色気のなさは、また違った意味で問題だとも思うので、せめて足の爪くらいは手入れしようと、久しぶりにビーサンになった足元を見て誓ったのでした♪

しかし、すごすぎる雪の量でしたね!
環七では、坂を上がれなくなった車がたくさん乗り捨ててありました。
撮影を終えて友人宅に戻る途中、今夜楽しむワインを転倒して割ってはなるまいと、大変、大変、緊張して歩き、やっとの思いでたどり着いたのでした。

2012/11/09(金)

私が「マレーシア移住」を選んだ理由 〈後編〉

もしもお金があったら
もしも会社員じゃなかったら
もしも現地で仕事にありつけるなら
もしも英語が話せたなら
もしもドラえもんがいたなら

今すぐ日本を出て、海外に移住するでしょうか?
子どもたちを海外の学校に通わせたいと思うでしょうか?

「もしも」でものごとを考えるとき、残念ながらほとんどの場合、私たちはそれを手に入れることができません。
条件から入ると、クリアするべき障害というのは、不思議なことに次から次へと増えていくんですよね。
それは、まるでやらない理由を並べているようなものです。

だからこそ私は「海外に移住する」というほしい結果から描き、動くことを決めました。
お金持ちじゃなくたって、英語力が大したことなくたって、仕事がこの先どうなるかわかんなくたって、ホントに生きたい人生を生きられることを、自分の子どもに見せたかったのです。
同時にそれは、私自身がもう一度ワクワクしながら、イキイキと生きるためでした。

しかーし!!
ことはそう単純じゃなかったのです。

「マレーシア移住」を決めたら、さあ、あとはイケイケドンドンだー!!
そう思ったら大まちがい。

肝心の私の心が、自分の発想にまったく追いついていけず、大ブレーキ(>_<) それは、4月に初めてクアラルンプールに下見に行き、いよいよ海外移住が現実味を増したあともまったく変わりませんでした。 日本に未練があるから? 自分たちだけ逃げ出すことになるから?? なぜこうもスッキリしないのか、長いことあれこれ考えていました。 確かに日本を逃げ出したい理由だけはたくさんあって、いまだに収束しない原発事故や放射能問題しかり、この国の暗澹たる未来しかり、子どもの教育問題しかり……。 そうやって実際にマレーシア移住の理由を並べて気づいたのですが、どれもかなり後ろ向きなんですよね(苦笑)。 「子どもたちのために」と、自分を奮い立たせることはできても、心とは正直なもので、ホントの意味でワクワクすることはできません。 私自身がマレーシアで何をするか? ワクワクしながら海外移住をはじめるには、その答えがいちばん大事で欠かせないことに、まもなく気づきました。 ただ海外移住したい、マレーシアに行きたい、だけではダメなんです。 それだけじゃホントの意味では前に進めない。 現実逃避と何ら変わらないことになってしまう。 で、私は何をしたいんだっけ?? ホントはどこに向かいたいんだっけ?? 考えれば考えるほど、迷宮に入り込んでしまったのでした。 東京には頻繁に通っているとはいえ、基本的には徳島にいる身、しかも妊娠&出産前後ということもあり、誰かとゆっくり会って話して糸口を見つけることもできず、答えを探して本ばかり読んでいました。 日本はどうなっていくのか。 世界はどうなっていくのか。 自分はどうしたいのか。 家族は、仕事はどうしたいのか。 友人や仕事仲間との関係は……? それは、長い長い旅でした。 経済やアジア関連の本から、自己啓発、歴史書、哲学書、果ては『バシャール』まで(笑)、いろいろなジャンルの本を読みました。 1日1冊を心がけたので、1年で300冊以上。 『読書の技法』の著者で元外交官の佐藤勝氏の読書量(月平均300冊以上、多いときは500冊)に比べたら足元にも及ばないレベルですけど、まあ妊産婦にしてはよくがんばったのでは!? 唯一手を出さなかったのは、小説。 ホントは大好きなジャンルなんですけど、ハマってしまうと遠回りになってしまうと考え、あえて自分に禁止令を出しました。 なので、小説はもう1年以上読んでいません。 本屋さんでもその棚だけは、立ち止まりたいのをぐっとこらえて素通りです。 あ、橘玲氏の『永遠の旅行者』だけは、読んだなあ。 「パーマネントトラベラー」の概念と、そのスキームや暮らしぶりが知りたいというのを言い訳に読みはじめたんですが、気づいたら純粋に小説として楽しんでしまいました。 さて、そんなふうに探し求めていた答えは、ある日突然見つかりました。 ただし、きっかけは「本」ではなく、「人」だったんですが。 ある人に恵比寿で偶然再会したあと、まもなくずっと求めていた答えに気づかせてくれる本に出会うことができ、目からウロコが!! そしてその直後、25日間に及んだ9月のクアラルンプール滞在中には、ある晩、めざすヴィジョンが空から降ってきた!!(笑) その具体的な内容については、ただ今準備中なので、ここでは触れません。 でも、まだ誰も見たことのない、あったかくていいにおいのするものをつくりはじめています。 その構想にあたっては、東京に住んでいたころ、かかわってきたNPO法人シブヤ大学や、クリエイター仲間たちと立ちあげた恵比寿発のアートプロジェクトSTART EBISUの活動が、大きなヒントになりました。

すでに書いたとおり、原発事故の直後、息子を最優先して、すべてのプロジェクトを放り出すかたちで徳島に来てしまった私。
そして、今度は海外に行こうとしている。

そのことが、自分の中で長い間ずっと罪悪感となって、「自分はどうしたいのか?」という問いとともに、どうにも消化できずにいました。

そんな折、次の仕事までの時間つぶしに入った恵比寿のカフェで、偶然再会したのが、今も恵比寿に住み、わが家とほぼ同じ年頃の子どもをもち、クリエイターでもある友人でした。
彼女は、開口いちばん私にこう言ったのです。

「わあ、元気? 聞いてるわよ! 今、徳島にいるんだって? いいわよ、それが絶対に正解よ~!」

逆の立場だったら、なんて言っただろう?
「徳島なんていいね、うらやましい。ところで、仕事とかシブヤ大学とかその他の活動はどうなってるの? 大丈夫なの?」
東京より安全な場所にいる彼女とそうでない自分を比べて、そんなふうに意地悪に聞いてしまったかもしれません。

でも、ふり返ってみると、私にそんな言葉をかけた人が一体何人いたでしょう?
ゼロではなかったけれど、限りなくゼロに近いし、そもそも私から距離の遠い人。
友人、仕事仲間、クライアント……大切な人は、みんなみんな応援してくれたのでは?

カフェを出て、駅で彼女を見送ったあと、私は自分にまとわりついていた「罪悪感」が消えていることに気づきました。

30代の後半から、NPOなどの非営利活動にかかわるようになってよかったと思うのは、若い人からお年寄りまで、いろんな世代の人と家族みたいなあったかいつながりができたこと。

先月、恵比寿ガーデンプレイスで「恵比寿文化祭」のイベントがあったのですが、そこで行われた目玉コンテンツの1つが、東京ピクニッククラブによるピクニック!

震災で計画が延期になっていたのが、1年半を経てようやく実現したのでした。
もちろん、かたちにしたのは恵比寿のステキな仲間たち!

ガーデンプレイスのシャトーの前にビビッドなグリーンのピクニックエリアが出現して、かわいいベビープレーンのピクニックマットが敷かれ、そこに大好きな仲間たちが座っておしゃべりを楽しみ、シブヤ大学恵比寿キャンパスの合唱団「Sing! Ebisu」の歌声が響き渡り……なんともステキな光景でした。

隣人が誰かもわからない、ありふれた都会の街だった恵比寿のあちこちでつながりが生まれ、それがさらに新しいつながりを生み出している……。
ああ、これは確かに、活動をはじめた頃、私がたったひとりで描いたヴィジョンだったと。
秋の夕暮れの風はもうすっかり冷たかったのですが、心だけはぽかぽかしていました。

発端は7年前。
強運体質になる方法」にも書いた例の落ち込み時期が開けるころ、「今までさんざん自分勝手に好きなことばっかりして暮らしてきたから、これからは少しでも何か人さまのお役に立つこともしよう!」と、小さなチャリティイベントを企画したことがはじまりでした。

それをシェアしたら、たくさんの仲間たちが賛同してくれて、かたちになって、そのうちシブヤ大学に「恵比寿キャンパスを開校するから」とスカウトされて、恵比寿にますます深く関わるようになって、町会のおじいちゃん、おばあちゃんともたくさん知りあって、恵比寿で最初のアートイベントを実現させて、恵比寿にある約40のギャラリーや美術館ともつながって、街を歩いているとあいさつを交わせる人がたくさん増えて……。

そんなミラクルを、マレーシアでも起こしたいと思います!
そして、それをアジアに本気で広めようと思っています!

人をつなげること。
夢や希望がもちにくい時代にもヴィジョンを描き、それに向かって動けること。

たぶんそれが、私のコア・コンピタンス(最大の強み)。
編集力とか企画力とか、そういう技術的なことじゃないんですよね、きっと。

言葉の壁や、仕事、海外での子育て、日本に置いていく両親、祖母……不安を挙げればきりがありません。
でも、それでも飛び出そうと思うんです。

何もしない人生よりは、何かをする人生を選びたい。
たとえ失敗したとしても、って思うから。

ちょっとそこのあなた!!
「いいな」って思うヒマがあったら、ついてきてくださいねっっ!

とりあえず私、先に行ってますから!!

2012/11/01(木)

私が「マレーシア移住」を選んだ理由 〈中編〉

さて、前回のつづきです。

今回は「なぜマレーシアなのか?」について書こうと思いますが、結論から言うと、ズバリ、消去法です(^_^;)

「もっとすごい答えを期待していたのに……」と、がっかりさせちゃったらごめんなさい!

でもね、海外旅行じゃないんです。
外国に住むんです。
世の中そんなに甘くないんです。

私たちのまわりには、外国で暮らしている人、あるいは暮らしたことのある人がたくさんいます。
だから、大抵の人は「いつか外国で暮らしてみたい!」という夢を叶えることが、それほど難しいことだとは思っていません。
「その気」にさえなれば、いくらでもできそうな気がします。
かくいう私もそのひとりでした。

でも、ちょっと調べてみるとわかるんですが、外国人が外国に住みつづけることって、案外難しいんですよ。
たとえば、あなたの知っている「現在、外国で暮らしている人」を何人か思い浮かべてみてください。

留学、駐在、国際結婚、ワーキングホリデー。
彼らは、大体この4パターンに当てはまるはずです。
それぞれ学生ビザ、駐在員ビザ、配偶者ビザ、あるいはワーホリビザを取得して、滞在してるんですね。

つまり普通の人は、外国に行って勝手に生活したり、仕事しちゃいけないんです。
当たり前ですけど。
ミリオンダラーのお金を携えて移住してきてくれて、そのお金を国内に投資してくれる人ならともかく、わが家のように「あわよくば現地でお金を稼いでしまおう!」という大してお金もないくせに下心だけは満点の日本人は、どこの国もまったく歓迎してくれません。

そりゃあそうです。
「外国からの移民を受け入れること=自国民の仕事を奪うこと」
になるんですから。
大体、日本だって移民ウェルカムの政策なんてとってないですしね(苦笑)。

現地採用で勤務先に労働ビザを出してもらっている日本人ももちろんいますが、これがまたなかなかのハードルの高さ。
語学力も必要だし、その仕事に就くのがその人でなければならない証明もしなくちゃいけません。
移民局は「誰にでもできる仕事なら、ビザが不要な自国民を雇え」という立場です。
そうは簡単にビザを出してくれません。
ビザが取りやすいのは、システムエンジニアや寿司職人、美容師さん、自動車整備士など、ある程度決まった職業のようです。

なるほど、国民であるってことは、ビザなしでその国にずっといられて、いくらでもお金を稼いでいいってことなんだ!!(同時に納税義務も負いますが)
タダで教育が受けられたり、健康保険があったり、年金がもらえたりしちゃうわけだ!!(日本の場合、将来の保証はないけど)

そんな中学生でもわかる当たり前の事実を、どどーんと目の前に突き付けられた気分でした。
また、ビザを取得するには、思った以上にお金が必要だということもわかりました。

となると、「行きたい国」「好きな国」という選択肢はなく、必然的に「行ける国」「行きやすい国」から選ぶことになります。
具体的には、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、マレーシア、タイ、フィリピンといったところでしょうか。

さて、わが家の場合、移住先について絶対に譲れない明確な基準がありました。
1) 治安がいいこと
2) 英語が通じること
3) 光ファイバーが通っていること
4) 日本と行き来しやすいこと
5) 物価が高くないこと
6) 人種差別が少ないこと

1) については、生活するんですもの。治安がいいにこしたことはありません。

2) については、英語力だって大したことないのに、ゼロから言語をマスターするのは、時間的にも年齢的にもキビシイ(>_<)。 それに、まず息子たちにはグローバル言語である英語をマスターしてもらいたい! というのが理由です。 3) については、基本的に東京で請けている仕事をするため、太くて早い回線が必須。特に印刷データは2~4GBと重たいので、光ファイバーが命綱になります。 4) については、徳島と東京を行き来していたのと同じペース(月1~3回)で帰国することになるので、直行便がある、便数がある、チケット代が安いことが条件になります。 5) については、世界同時不況だの、国家財政破綻だの、ハイパーインフレだの、いろいろな懸念があるこのご時勢、生活費が安くすむにこしたことはありません。 6) については、日本にいるとあまり大きな問題として実感しにくいものですが、外国では日本人はマイノリティになるわけですから、特に学校に行かなくてはならない子どもたちにとっては人種差別のあるなしは深刻です。 途中、次男を出産しながら、数か月に渡る精査の結果、上記のすべてに合致したのが、マレーシアだったというわけです。 ニュージーランドも有力な候補だったんですけど、ビザの取得条件が年々厳しくなっているのと、いまだに通信環境がADSLだったり、日本から遠すぎるという理由で却下となりました。 しかし、一年中暑いのってどうなのよ……と、近年の日本の夏の過酷さを思うと、つい尻込みしたくなりますよね。 でも実際のところは、朝晩は22~24℃とすこぶる快適で、日中は晴れていると30~33℃くらい。 曇りの日は28~30℃程度で、比較的過ごしやすいんです。 つまり、東京の灼熱地獄のようなことはありません。 しかも、花粉症がなーーーい!! これはアレルギーもちにはうれしい限りです。 四季がないと飽きそう……っていうのは、この際、贅沢な悩みだと思うので、なんとか乗り越えたいと思いマス。 実際にマレーシアに行ってみて魅力的だなと思ったのは、人種・文化が多様なこと。 マレーシアは、マレー系67%、中国系24%、インド系7%など、さまざまな人種から成る多民族国家で、公用語もマレー語、英語、北京語、タミル語と4カ国語が使われています。 人口が2900万人弱のため、マレー語はマイナー言語と思いがちですが、「マレー語=ほぼインドネシア語」だそうで、マレー語が話せるということは、なんと2億人のインドネシア人と話せることになります! うまくいえば、息子たちはトライリンガルになれる可能性もあるんですが……さあ、それはどうだか。 LCCの代表格、エアアジアが飛んでいるのも、かなりのポイントです。 しょっちゅうキャンペーンをやっていて、うまくやりくりすれば、片道9800~1万6000円程度(燃料サーチャージ込み、手荷物・機内食などは別)で東京に戻れます。 これは、徳島―羽田間のチケットより安かったりします。 しかも、羽田発着なのがありがたい!! 東南アジアの中では、シンガポールに次いで治安がよく、政治も安定しています。 日本では、多くの人がマレーシアというとまだ発展途上の国というイメージを抱いているようですが、実際に足を運んでみると、東京もビックリの大都会です。 ジャスコや伊勢丹、紀伊国屋書店、ダイソー、ユニクロ、MUJIなど、日本企業もたくさん進出しています。 ショッピングモールに行くと、その品揃えに驚きます。 わが家はまだお世話になっていませんが、医療水準も高く、日本語が通じる病院も複数あるそうです。 また、非常に親日的で、日本人にはとても居心地がいい国です。 地震、台風などの天災がなく、原発もありません。 意外と知られてないのが、資源国であること。 石油も天然ガスも純輸出国です。 そのため、ガソリンは1リットル50円程度。 このほか、電気、水道、ガスなど、水道光熱費も日本の3分の1程度です。 住宅事情もよく、月5~6万円で100平米の家具付きコンドミニアム(プール、ジム付き。カフェ、テニスコート、ミニマート、託児施設などがある物件も少なくありません)を借りることができます。 10万円も出せば、150平米以上の物件に住めます。 今後10年間で人口が2割以上増えることが予測されていて、2050年になっても人口分布がきれいなピラミッド型を維持することがいわれています。 加えて、政府が10年間で所得倍増計画をうたっているだけあって、みんなイケイケドンドンな感じ。 たとえば、マレーシア最南端のジョホール州では、今、一大国家プロジェクトが推進されていて、シンガポールの中心部から車で30分のヌサジャヤ(シンガポールの対岸です)に州都を移転し、海外の有名大学を誘致したり、テーマパークをバンバン建てたり。 住宅価格が上がりすぎたシンガポールの受け皿として期待され、世界中からマネーが集まっています。 開発することが手放しでいいことだとは思いませんが、街も人々も非常に活気があります。 東京に戻ると暗い顔をしている人が多くて、マレーシアとはなんとも対象的で複雑な気持ちになります。 とまあ、マレーシアのいいところばっかり並べてみましたが、もちろん問題もたくさんあります。 仕事は正直、かなりテキトーです。 街はごみだらけだったりするし、公衆トイレが汚いのは外出時の大きなストレス。 治安がいいとはいうものの、もちろん日本のようにはいきません。 ボッタクリタクシーはそこらじゅうにいるし、ひったくりや泥棒の類もよく耳にします。 物価が安いとはいえ、都市部で外食すればほぼ東京並み。 給料が増えていくってことは、イコール物価が上がっていくことですし、円高だっていつまで続くかわからないっていうのも不安要素です。 外国人のため公立学校には通えないので、学費がそれなりにかかることなども予測されます。 また、いくら英語などが身に着くとはいえ、息子たちの日本語がおろそかになるという問題とは、これからずっと向き合い、葛藤していかなくちゃいけません。 わが家の場合、何といってもいちばんのリスクは、クアラルンプール―東京を往復しながらでホントに仕事がつづけられるのか!? ってことですよね。 とりあえずこんなワガママを言っても理解を示してくださっているクライアントには、本当にどれだけ感謝しても足りません。 私にできる恩返しは、「結果を出す」ってことだけなので、そこは日本にいるとき以上にシビアにこだわっていきたいと思っています。 さて、ここまで2回にわたって「マレーシアに移住する理由」については確かに書いたんですけど、この際、その目的についても記しておきたいと思います。 実はここからが本編だったりして(笑)。 というわけで、つづきはまた次回!

2012/10/28(日)

私が「マレーシア移住」を選んだ理由 〈前編〉

どうしてマレーシアなの?

最近、どこで誰に会っても必ず聞かれるので、ここに記しておきたいと思います。
それにはまず、3.11の1週間後から徳島に滞在し、その後、「東京には戻らない」という選択をしたときの心情からお話ししなくちゃいけません。

地震・津波による被害の甚大さにも打ちのめされるようなショックを受けましたが、さらに原発事故が起こったとき、大げさでなく膝ががくがく震えました。
iPhoneを握りしめ、Twitterのタイムラインを息を詰めて見つめながら、私の頭の中をぐるぐるめぐっていたのは、次のようなことでした。

もしも最悪の事態が起こったら?
首都圏がパニックになったら??

幼い子ども(当時2歳)と中型犬(12kg×2頭)を抱えるわが家は、安全に逃げ切ることは難しいだろうと思いました。
それで、息子を一刻も早く徳島にある母の実家(私にとっては、いわゆるおばあちゃんの家です)に連れて行こうと決心しました。
夫やたまたま上京していた母にそのことを伝えたのは、すでに腹を決めたあとのことです。

「ダンナさんはよくぞ理解してくれて、しかも一緒に着いてきてくれたよね」
「もともと東京の人じゃなかった??」
「どうやって説得したの!?」
……などなど、まったくもって信じられない!! というふうに聞かれることが多いのですが、徳島行きについては、夫はおろかほかの誰にも相談することなく私ひとりで決めました。

もしも相談していたら、「仕事があるから」「まだそれほど深刻な事態ではないから」など、あれこれ理由を並べて東京から動かないことを選択したかもしれないし、あるいはもっと動くのが遅れていたかもしれません。
もしも夫が「自分は東京に残りたい」と言ったら、迷わず置いていったと思います。

でも幸いわが家は自営業で、絶対に会社に出社しなければいけない身分ではないし、PCとインターネットが使えればどこでも仕事ができます。
そこで、私と息子と母は飛行機で、夫は犬と仕事道具一式を車に積んで陸路で徳島入りすることにしました。

ところが、これから徳島に向かうという日の朝、私自身が妊娠していることに気づいたのです。
うれしいという感情よりも先に、正直「よりによってこんなときに……」と青ざめたのを覚えています。

さて、徳島に着いて多少ほっとはしたものの、余震も原発事故も一向に収まる気配がなく、心配で胸がつぶれそうな日々を送っていたのは変わりません。
仕事もあったので、夫と交代でほとんど1週間ごとに東京に戻り、数泊してまた徳島に行く……という暮らしでした。

そのうち強烈なつわりがはじまり、調子の悪い日はソファで寝ころんだまま起きられない、夕方になるとほぼ毎日トイレに駆け込んで吐く、という生活に突入しました。
日本中の誰もが誰かの力になりたいと思っているときに、私はまったく動くことができず、そんな自分にますます落ち込むばかり。

実際、仙台の幼なじみからも避難所の支援方法について相談をもちかけられたのですが、結局「TwitterやFacebookをもっと活用しては」というあまり大したことのないアドバイスと、支援団体のサイトをいくつか伝えるだけで精一杯でした。

息子の保育園の問題があり(公立保育園は、2カ月間1日も登園しないと除籍になってしまうのです)、避難から1カ月半後、徳島に住民票を移すことを決めました。
息子には大人と一緒に家で過ごすより、友だちと遊ぶ時間が必要でしたし、大人は大人でするべきことがたくさんあったのも理由です。
同時に自宅も引き払う決意をしました。(事務所をたたむことを決めたのは、もっとずっとあとのことです)

10年以上暮らし、事務所を構え、たくさんの仲間たちがいて、大好きなお店もたくさんある恵比寿から徳島へ。
しかも、そこに自分の意思は微塵もなく。
この不本意な引っ越しは、ますます私を落ち込ませました。

4月には新しいデザイナーを採用し、事務所のフロアも増やそうと考えていた矢先でした。
ほぼ確定していた大きな仕事をお断りし、採用活動も中止しました。
徳島にいつづけること、そして私自身が無事に元気な子どもを出産することを優先させたのです。

たまに気分転換で外に出ると、無邪気に走りまわる息子と徳島の里山の美しい風景が、東日本で起こっていること、私が置かれた現実とあまりに乖離していて、涙で前がくもって見えなくなることもありました。

そうだ、海外に出よう。
そう決心したのは、つわりがひと段落した夏前だったでしょうか。

きっかけは、息子とおなかの子どもの将来を案じたことだったと思います。
徳島は自然環境はすばらしいのですが、高齢化が進み、子どもが非常に少ないこと、文化的にかなり遅れていることなどが、自分の中でずっと引っかかっていました。

1学年20人いるかいないかの子どもたちが、保育園から中学卒業までずーっと一緒なのです。
子どもには、できるだけ多様な人や文化に触れながら大きくなってほしいと願っているわが家にとっては、徳島に根を下ろすという選択はなかなか難しいものがありました。

その心配を口にすると、有名私立の小中高一貫校をすすめてくれる人もいました。
が、その理由が「あそこの学校はすごい。今年、東大に○人入って……」というもの。

「わー、ごめんなさい、そういうの、まーったく興味ないんです!!」
徳島が誇る名門校ですから、面と向かってそうは言えません。
「そうなんですねー、すごいですねー」と相槌を打つので精一杯(苦笑)。

「文科省のカリキュラムどおりに授業をしない」とか「アートやサイエンスの授業に特色がある」とか「おもしろい人をどんどん呼んで授業をしてくれる」とか、そういうちょっと変わった学校だったら大いに興味あるんですけどね……。

この国でしか生きられない人ではだめだ。
世界中のどこででもたくましく生きていける人にならないと。
でもそれを実現するには、日本の教育システムの中ではきっとだめなんだ。
それが私の結論でした。

じゃあ、息子が15歳になったら留学させるのか?
でも、待てよ……それにはまず親の財力が必要不可欠でしょ。
とはいえこの国の未来は……十数年後も私に稼ぐ能力があるといえるのか?
今は円高だからいいけど、国力が衰えて円安になっちゃったらどうするの??
円安になったら、円を稼げど稼げど……ってことになっちゃわない???

大体、「世界中のどこででもたくましく生きていける人になってほしい」なんて、単なる親の願望の押しつけじゃないの?
自分にできないことを、子どもに押しつけていいの?
それに仮に15歳で外に出すとしたら、あと一緒に暮らせる時間は12、3年しかないんじゃないの!?

そんな自問自答ばかりぐるぐるくり返していたある日、突然、思いついちゃったんです。
「そうだ、家族みんなで海外に出てしまおう。そして、多少かっこ悪くてもいいから、外国でたくましく(図太くともいう)生きていけるところを、子どもたちに示そう」って。

今の自分の状況を東電のせいにしたり、ふがいない政府や行政のせいにしたりしていては、全然だめだ。
私は私の人生を、もう一度ワクワクしながら生きたいんだ!!!

……そして、もちろんこの「海外移住計画」も、夫に話したのは、私の中でしっかり決めたあとでした(笑)。
さすがに最初は「今度は外国かよ!?」と面喰ったみたいですけど、理由を話すと理解を示してくれるようになりました。

徳島ののんびりした空気は、ものづくりを生業としている私たちにとっては、あまりに刺激がないというのも、決め手になったようです。
今では時間があれば英語を勉強していて、意欲満々!
クアラルンプールに引っ越したら、語学学校にも通うようですよ。
四捨五入するともう50のおっさんなのに、なかなか前向きにがんばってます。

さて、そうと決まったら、次は移住先探しです。

……と、ちょっと前ふりが長くなってしまいました。
なかなか「なぜマレーシアなのか?」にたどりつけませんが、今日はこのへんで(苦笑)。

つづきはまた次回!

2012/10/18(木)

強運体質になる方法

先日書いた「占いのチカラ」について、思いのほかたくさんの反響をいただき、早速June Coteに占ってもらったという人たちからの報告もチラホラ届いています。

みなさん自分のことをズバリ言い当てられたことにビックリし、そして次に口にする言葉は「背中を押してもらった気分ですごくうれしくなったし、次のステップが見えてきた!」というもの。
うんうん、占ったほうも、占ってもらったほうも、なかなかいいぞいいぞ!

さて、そんなこんなで調子に乗って、今回は第二弾ちっくなことを書こうと思います。
それはズバリ、運気をアップする方法!

自分は運がいいと思いますか?
それともイマイチだと思いますか?

私自身はそう聞かれたら、「はい、かなりいいと思います!」と答えます。
たぶん私を知っている人のほとんどは、「確かにそうかも」と納得していただけるのではないでしょうか!?

これってなぜだと思います?
生まれつきいい運勢だから?
神様とかご先祖様がついてるから??

答えは、私自身が「運のいい人になる」と決めたから。

なーんだそんなこと!? って思うでしょう?
はい、そんなことなんです。

ここで大切なのは、運の善し悪しではなくて、そうなると「決める」こと。
腹の底から決めると、人生はちゃんとそっちに向いて動き出すものなんですね!

中学生のときのことです。
もともと人と同じことをしたり、団体行動がひどく苦手な私は、公立中学での義務教育は息苦しい以外の何ものでもありませんでした。

しかし残念ながら、日本の教育は今も昔も“出る杭は打たれる”。
(このあたりが、息子たちに海外で教育を受けさせたい理由だったりします)

そこから逃げ出すには、時間が経つのを待って卒業するしかないと思いこんでいたので、当時の私は、お世辞にも「運がいい」とはいえない状況に置かれていたわけです。

でも、ふと思ったんですよね。
運がいい人と悪い人、世の中に2種類の人間がいるとしたら、私はどっちになりたいのだろうか? と。

折しも世間は『マーフィーの法則』ブーム。
母に「おもしろいよ」とすすめられて読んだ純情な(?)中学生は、すっかりその気になってしまったのです(笑)。

『マーフィーの法則』がもしも今、ブームを迎えていたら、現在の私が手に取るかは極めて怪しいのですが(話題の本という面でチェックするかもしれませんが)、中学生のときに読んだことは、その後の私の人生を左右するほどの体験になりました。
ある意味、私の人生にもっとも影響を与えた本の1冊であることはまちがいありません(笑)。

……と、話が脇道にそれましたが、ともかくそれ以来、私は勝手に「運のいい人になった」のです。

今年の夏のできごとです。
都内某所のイベント会場で、久しぶりにいろいろな人と顔を合わる機会がありました。
そのなかのひとりが、私の顔を見るなりこう言ったんです。

「オグラさん、私、結婚したんですよ! オグラさんのおかげなんですう~~!!」

えええええええ、なんだそりゃあ???

彼女が結婚したという事実にも驚いたけれど(失礼ながら、前に会ったときはそんな色っぽい雰囲気はみじんもなかったのです)、そもそも相手を紹介したわけじゃなし、当方、そんなふうに言われる覚えはちっともないわけです。

「それはおめでとう! でも、私のおかげってどういうこと?」
たまらず理由を聞いてみました。すると、彼女はこう言ったんです。
「1年半以上前ですけど、恵比寿でランチしたとき、オグラさんがいろいろ教えてくれたじゃないですか」

ああ、確かにランチした、した。
でもますますわからない。
私、なんて言ったんだっけ???

「結婚したい」願望はある、でも良縁がなく……という30代独身女子にありがちな悩みを抱えていた彼女、なんとランチ直後から、私のアドバイスを忠実に実行したらしいのです。
そして、2カ月後にはなんと運命の出逢いがあり、めでたく結婚したというわけ!!

さりげなく彼女を観察してみると、すごい、最後に会ったとき(ランチしたとき)より断然きれいになってる!
新婚さんらしい、初々しいほのかな色香さえ漂わせていて、その様子から彼女の結婚生活がとてもうまくいっていることがわかりました。
うんうん、なかなかいいぞ!

さて、私が人生のちょっとだけ先輩として彼女にアドバイスしたのは、とてもシンプルなことでした。
私自身も実践しているその方法を、ここに記そうと思います。

◆その1:今の人生を変えたいと思ったら、変わることを心の底から決意する。

中学生だった私が、「運のいい人になる」と決めたのと同じことですネ。

ちなみに運のいいはずの私にも、30代半ば頃、半年以上に渡って公私ともにボロボロの時期がありました。
いわゆる後厄だったんですけど、信頼関係にあったはずの人からは裏切られるわ、かなりの時間を割いて身を削ってつくった仕事が途中で頓挫するわ、失恋するわ、あげく酔っぱらって段差で転倒し、全治3週間の捻挫をするわ、とにかく踏んだり蹴ったりな感じだったんです。

で、私、どうしたか?
家でひとり淋しく缶ビールを片手に酔っ払いながら、「もうこんな人生はやめたい!! 絶対に変えるんだああああ」と、腹の底から自分に誓ったのです。(←今ふり返ると、ものすごいすさんだ光景です)

で、その結果、どうなったか?

1週間後に今の夫と数年ぶりに再会、半年後に再婚しました(笑)。
ね、腹の底から変わると決める力、結構大きいでしょ!

◆その2:いつもと違うことをする。

ものごとがうまくいかないときは、アプローチがまちがっているせいということがほとんど。
だから、いつもと少しやり方を変えてみるのです。

具体的に何を変えればいいかわからないときは、何でもいいんです。
話をするのが大好きな人なら、少し自分の話を控えて、相手の話をよく聞いてみる。
ふだんテレビをよく観る人なら、スイッチを消して本を読んでみる。
いつもと違う通勤コースで職場に行く、などなど……。

なんだそんなこと?
そう、そんなこと!
そんな小さな変化が流れを変え、あとからふり返ると大きな変化につながったりするものです。

◆その3:以前から気になっていることを、とりあえずやってみる。

前から行ってみたいなと思っているところに行く、冷蔵庫や下駄箱など、気になりながらもそのままになっているところの掃除をする、捨てようと思いつつ、ほったらかしになっているものを捨てる、会いたいと思っている人に会う、観たい映画を観る、などなど……。

心にひっかかっているものをいつも持ち歩いていると、その分、運気が下がります。
なるべくすっきり身軽に毎日を過ごしましょう♪

◆その4:自分がイヤな気持ちになる人とは会わない、付き合わない。

実はこれ、いちばん大事なことなのに、みなさんよっぽど人がいいのか、「つきあい」とか「惰性」にまかせている人が多いんですよね。

“イヤな気持ち”とは、好きとか嫌いとかそういうレベルの話じゃなくて、その人といると、なぜか自分が卑屈になったり、嫉妬したり、イライラしたり……一緒にいるだけで自分の中のドロドロとしたイヤなものが出てきてしまう人のことをさします。

会うといつもエネルギーを吸い取られるような気持ちになる人と一緒にいても、全然いいことないです。
限られた人生、大切だと思う人一人ひとりに会おうとすると、もうあと何度も同じ人には会えないことがわかります。
だったら、会うとすごく楽しくて元気になれる人たち、刺激になる人たちと一緒に過ごしたいですよね!

以上、強運体質になるためのオグラ流4か条でした。

……などと、かなりえらそうに書いてしまいましたが、ホントにほしい結果とは、実践した人だけが手にできたりするものだったりします。

だまされたと思って、ぜひお試しくださいね!
そして結果をぜひご報告ください(笑)。

2012/10/16(火)

コンセプトより大事なもの

モノづくりをするとき、「コンセプト」というのは、もっとも重要なキーワードである。
長らくそう思ってきました。

だから、自分がモノをつくるときも、また誰かがつくったモノを見るときも、
「ターゲットは? コンセプトは?」
そんなところにばかり目がいっていたと思います。
コンセプトがいいと、「うーむ、よくできているなあ」と唸ったりして。

でもね、最近あることを大発見しました。

コンセプトだけだと、続かないんですよ!
ブランドも、会社も。
どんなにコンセプトがしっかりしてても、それだけでは、いつか走り続けられなくなるときがやってくるんです。

そのことを気づかせてくれたのは、12年以上一緒に仕事をしているスタッフです。
小社では創業時から2つの柱の1つとしてアパレル事業をしてきたんですが、私がある時期を境に、その業務にまったく情熱を注げなくなってしまったんです。

ちょうどアパレル担当スタッフの妊娠・出産も重なったので、「まあそれなら、しばらくはムリなくできる範囲で」みたいなことになりました。
正直、そのときの私には、それがちょうどよくて、どこか肩の荷が下りたような気持ちでいました。

そんなふうに宙ぶらりんになってしまったアパレル事業ですが、スタッフがたったひとりでコツコツ地道につづけていました。
ありがたいことに、お客さまからも取引先からも、変わらないラブコールをいただいていたので。
でも今、ふり返ってみれば、それにとても甘えていたとも思います。

そんな状態が続いていたある日、起こったのが東日本大震災でした。
悩んだあげく、東京の自宅や事務所、業務の整理をすることになり、それに伴い、アパレル事業についてはデュアルから切り離す決意をしました。

東京から離れてしまうし、そもそもブランドそのものが長らく私の手から離れていたしで、スタッフに無償で権利を譲渡することにしました。
そのときは、それがいちばんいい選択だと思ったのです。

……が、その結果、どうなったと思います??

スタッフは今年に入ってから廃業を決意して、長らく関係のあった取引先との取引を中止。
生産も完全に停止して、ブランドは消えてなくなったも同然の状態になってしまったのです。

もちろん、ブランドコンセプトは誕生当時から変わることはありません。
けれど、マネジメント側だった私にとっても、ブランドを一からつくり、育ててきたスタッフにとっても、コンセプトはモチベーションアップには何の役にも立たなかったのです。

ブランドがなくなってしまったことより何よりショックだったのは、スタッフがモノづくりから完全に離れようとしていたことでした。
彼女のつくるモノが大好きだったし、また一緒に仕事をしたいと思っていたから。

それで、もう一度、みんなで話をしたんです。
そしたら、私自身がコンセプトより大事なものをおざなりしてきたことが、最大の原因だったことに気づいたんです。

それは何かって?

ヴィジョンです。

なーんだ、そんなものかと思いますか?

でも、ちょっと考えてみてください。
スタッフみんなでヴィジョンを共有している会社やブランドって、実は案外少ないんですよ。
ひょっとすると、ほとんどないかもしれない。

震災後、長らく冬眠状態のように鬱々悶々と毎日を過ごしていた私が、この夏、一気に目が覚めたように、自分のしたいこと、するべきことがハッキリ見えてきたというのは、すでに書いたとおりです。

以来、私が決めているのは、まず到達したい結果をできるだけ具体的に描く、そしてそこに向かって走る、ということです。
(今まではどちらかというと、思いついたら即動くタイプでした。何分、せっかちなもので……^_^;)

今ある条件や、できることの中からかたちにしようとするのではなく、ヴィジョンを決めてからかたちにする。
つまり、ボトムアップ方式からトップダウン方式への大転換というわけです。

今までの私、本業の編集業でも、依頼された仕事をこなすので精一杯。
依頼が途切れなかった、というのはとてもありがたいことですし、目の前の仕事を着実にこなすことで、少しずつやりたい仕事につながってきたのも事実。
それはそれで満足だったんです。

でも40代に入り、人生の折り返し地点を実感。
このままでは、やりたいことの半分もできないままタイムアウトだな、と。
だからヴィジョンから考え、それをみんなで共有し、モノをつくりたいって思うようになったんです。

「やりたいことがあれば、それでいいのでは?」あるいは「ヴィジョンを考えるのってちょっとめんどくさい」なんて少しでも思ってる間は、頭をめぐっている“やりたいこと”“実現したいこと”は、ヴィジョンじゃないんです(ちょっと前の私が、まさにそうでした)。

いざはじめてみると、ヴィジョンを描くのって、すごくワクワクして楽しい作業だってことに気づきました。
そして、それをシェアすると、みんなの顔がどんどんワクワクしてくるのを見るのも、また楽しくて!

コンセプトはあとづけでOK。
まずは、明確なヴィジョンから描きます。

それは、会社やブランドなんてちっちゃなことじゃなくて、家族も仲間も、まだ出会っていない人たちのことさえも含めたヴィジョン。
つまりは、残りの人生をどう生きるかってこと。

ごく近い将来、もう一度スタッフとともに新しいブランドを立ち上げようと思っています。
舞台はもちろん、アジア!


以前つくっていたのは、こんなバッグたち。
アンティークの着物地を使った一点モノです。


ハレの日のためのワンピースなども、つくってきました。
また特別な日を彩る服たちをつくりたい気持ちがムクムク!